世界的なF1ドライバーも
近藤貞雄
近藤貞雄は愛知県岡崎市出身の元プロ野球選手であり、元コーチであり、元監督であり、さらには野球解説者でもあったまさに野球一筋の人生を送った偉大な人物です。 1925年10月2日生まれで、愛知県立岡崎中学校から法政大学へ進んで中退後、1943年に西鉄軍に入団しました。元々は一塁手で強打者だったのですが、チームの事情から投手へと転向します。 1944年に徴兵により選手不足で困っていた東京巨人軍へ移籍しますが、そこでも投手として登板するだけでなく野手として試合に出る日もあったそうです。 1946年にはシーズン23勝というとてつもない大活躍をしますが、秋季キャンプ中に怪我をしてしまい神経に大きなダメージを負うことになります。 この怪我のせいで右手の中指の第二関節から先が曲がったままになってしまいます。 今なら迅速に治療をすれば元通りになったかもしれない怪我ですが、当時は戦後の混乱期で満足な治療を受けることができず、プロ野球選手、しかも投手にとってはとても大きな後遺症が残ってしまったのです。 そのまま選手生命に終止符を、と思われましたがその後中日に移籍してパームボールを開発し、見事な復活を遂げます。 現役引退後は中日、ロッテ、大洋、日本ハムでコーチや監督をしており、選手時代と合わせると半分ほどのプロ野球チームに在籍していたことになります。 また面白いことに中日ドラゴンズでは選手としても、コーチとしても、監督としても優勝したことがあるという、中日にとても縁のある野球人です。
木俣達彦
木俣達彦も岡崎市出身の元プロ野球選手、野球評論家です。1944年7月7日に生まれると中学時代から捕手として目覚しい活躍をします。 中京商業高校在籍時に春夏連続で甲子園に出場するなど若い頃から才能を順調に伸ばし、中京大学へ進学すると一年生でレギュラーとなり秋季リーグでMVPに選出されます。 あまりにも活躍しすぎたために地元球団である中日ドラゴンズから早々と誘いを受け、大学を中退して1964年に入団する運びとなります。 当初は強打者として大活躍をしていた木俣達彦は、1969年には33本塁打を記録するほどのパワーヒッターでしたが長打力はともかく打率はあまり伸びず、打撃フォームを改造することになります。 当たれば大きな一発はあるけど安定性がない成績を改善するため、打率を上げるために一本足のマサカリ打法を習得するのです。 このフォームはグリップを下方から上方に上げる形で、これをマスターすることでパワーヒッターからレベルヒッターへと見事な転向を果たします。 1974年には自己最高の打率322を記録し、安打の打てる捕手として大活躍します。 1982年に引退するとCBCで解説者を勤めたり、スポーツ新聞で評論家をしたり、中日ドラゴンズのコーチをしていました。 それ以外にも中日OB会の副会長を務めたり中日OB会の会長を務めたり、中日OB会の会長代行も務めています。 とにかく中日ドラゴンズ一筋の人生を歩んできた木俣達彦は、愛知県民なら誰でも知っているスポーツ選手ではないでしょうか。
生徒の健康観察
中嶋悟(なかじまさとる)は愛知県岡崎市出身の元レーシングドライバーで、有限会社中嶋企画代表取締役社長でもあります。 1953年2月23日生まれの身長165センチ、体重60キロと、レーシングドライバーとしては理想的な体形の持ち主です。 航空母艦雲鷹(うんよう)で整備兵をしていた軍人を父親に持ち、4人兄弟の末っ子として生まれ、岡崎市立梅園小学校から岡崎市立葵中学校へ進み、名城大学附属高等学校へと少し遠いですが進学します。 この時にレーシングカートを覚えるとレースに度々参戦するようになり、レーサーとしての才能を開花させていきます。 卒業後には学生時代にアルバイトをしていたガソリンスタンドに就職すると、資金を貯めながら本格的にレーサーとしての活動の準備をしていきます。 1973年に鈴鹿シルバーカップでデビューすると、1975年にはFL500でシリーズチャンピオンになってしまいます。 1976年には最強チームと呼ばれていたヒーローズレーシングへ加入、1977年にはFJ1300でシリーズ全7戦でポールポジション、 全周回トップという圧倒的な強さでシリーズチャンピオンを獲得するなど、その勢いは止まりません。 F1ドライバーとしては1882年にロータスのテストを行ったのが初めてになり、1984年からはホンダF1のテストドライバーを務めます。 このように順調すぎる成績を収め続けた中嶋悟は、日本人としては初めてのF1フルドライバーとしても有名なので、F1に興味を持っている人なら岡崎市民でなくとも名前を知っているのではないでしょうか。